ポポ號

2019.12.18 Wednesday

ポポちゃん

 

 

 

これは昨年の秋、11月30日のことである。

 

その日私は、入院している母の病院へと向かっていた。

母は不整脈の治療をすべく、2泊3日の手術入院をしていた。


幸い手術は無事に済み、明日には退院できる。
私はそのことに安堵しながら、自転車を一人、こいでいた。

 

信号がタイミングよく青に変わり、左に曲がる。
生垣の並ぶ細い道を左端に寄り、ペダルをこぎ続ける。

そのまま500mほど進めば、そこはもう病院だ。

 

 

あと1回行けば済むんだな。

そう思った瞬間、左斜め前方、縁石の内側に、

「何か」が横たわっているのを、私の視界は察知した。

 

人懐こい猫が、じゃれて寝転んでいるのだ。

私はとっさにそう願おうとしたが、そんなはずはなかった。

 

 

赤茶毛の縞模様をした猫。微動だにせず、見開いたままの目。

 

死んでる・・・!

 

通り過ぎると同時にその姿を認識した私は、すぐさま引き返すことができなかった。
どうしてだろう。自転車から降りることができなかった。
確かめるように大きく振り返り、

「あ〜!あ〜!」と、声にならない声で、私は叫んでいた。

 

 

猫が横たわっていたのは、縁石の内側、生垣の根元付近である。
けれど、一方通行のこの細い道で、車に轢かれたのだということは明らかに思えた。

 

「どうしよう!どうしよう・・・!」
その言葉がひたすら全身を駆け巡る。

 

自転車をこぐ足は、救いを求めるように母の待つ病院へと向かっていたが、
私の心は、すでに決まっていた。

 

「放っておくことなどできない。絶対に!」

 

 

 

病院へ着くと、母は嬉しそうに私を迎えた。


元気そうな母の姿を確認した私は、

すぐ近くの道路で猫が死んでいることを早々に伝えた。

母の顔は、一瞬で曇った。

 

 

 

猫の遺体が、安全な縁石の内側に移動させられていたということは、
誰かしらが市役所なり保健所なりに通報していることは、たぶん間違いない。


その時の私の知識では、自治体などに引き取られた動物の遺体は、
ゴミとして扱われるというものであった。

 

めったに使わない携帯を鞄からゴソゴソ取り出し、検索してみる。
他県のことではあったが、そういった自治体が実際にいくつも存在していることを

私は確認した。

 

命を奪われた挙句にゴミとして燃やされるなんて、
そんなこと、絶対、許さない。

 

 

私が携帯を睨みつけていたそのとき、母がおもむろに小さくつぶやいた。

 

「身代わりになって死んでくれたんだよ」

 

その突拍子もない言葉に、私は思わず顔をあげた。
しかし母は至って真剣な顔をしている。

 

「何?お母さんの代わりに猫が死んだっていうの?」


私は半ば呆れ気味にそう言ったが、母は私の顔を見ることもなく、
床をじっとみつめたまま眉間にしわを寄せ、

うんうんと深く頷いた。

 

私はこのとき初めて、母の胸の内に触れたような気がした。
母は母なりに、覚悟をもって今回の手術に挑んでいたのだ。


難しい手術ではないという認識ではいたが、心臓の手術であることに変わりはなかった。
いつもあっけらかんとしている母だって、人知れず大きな不安を抱えていたのだ。

 

 

しかし、母のそんな心境を感じつつも、今はゆっくり話し合っている場合ではない。
こうしている間にも、どこかしらの事業所が通報を受け、
猫を連れて行ってしまうかもしれないという焦りがあった。

 

私はずばり訊ねた。
「家の庭に埋めてもいい?」

 

「いいと思うよ」
間髪いれずに母はそう答えた。

 

母の了解を得られた私は、すぐさま姉に電話をかけ、事情を話す。
家に連れて帰りたいから車で迎えにきてくれないかと頼むと、
姉は忙しい身でありながら、迷うことなくOKしてくれた。

 

 

「じゃあ行ってくる!」
私はそう言い残し、病室を出た。

 

 

 

外に出た瞬間、私は時の経過を感じ、しまったと思った。


母と話している間に、通報を受けた事業所が来てしまったかもしれない。
誰かが猫を連れて行ってしまったかもしれない。
ああ、どうしてすぐに行動に移せなかったのだろう。
その場を離れるべきではなかった。ぐずぐずしている暇などなかったのだ。

 

私は祈るような思いで、猫の待つ場所へと急いだ。

 

100mほど手前で、私はホッと息をついた。
動かぬ猫が、同じ場所に横たわっているのが見えた。

 

 

安心したのもつかの間、

制服を着た中学生らしき男の子たちが5人、脇道から不意に姿を現した。
ずらずらと横並びになって、前方を楽しげに歩いている。

 

厄介だなと思った。


静かに弔いをしたかった私は、猫の死を騒ぎ立ててほしくなかった。
あの子たちも、これは放っておけぬと声をあげ、猫を運び出すかもしれない。
もしそういう流れになったなら、私はその善意を遮り、

自分がやるからと申し出ねばならなくなる。

 

私はドキドキした。

 

けれど、私のそんな心配は無用に終わった。
なぜなら、男の子たちは自分たちの話に夢中で、

誰一人、猫が死んでいることに気がつかなかったのである。

 

そんなことって、あるだろうか。
3mほどしかないこの細い道の端っこで、

1匹の猫が、叫ぶように死に果てているというのに!

 

目の前のその光景が、私にはまるで夢のようにまどろんで見えた。
逃れられない不条理と切なさ。

生も死も、光も影も、この世のすべてが、幻のように思えた。
苦しかった。

 

とは言え、騒がれずに済んだことは、本当に心底ありがたかった。
死んだ猫を守ってやれるのは、自分しかいない。
私はますます、勝手な使命感に熱くなっていた。

 

 

他に人通りもなく、私は無事猫のいる場所へたどりついた。
伸びきった手足。横を向いたまま叫ぶように口を開け、ただ一点を見つめている。


「待っててね。すぐ戻ってくるから」


私は小さくささやくと、先を急いだ。
50mほど行くと大通りに出る。そこを左に曲がれば小さなコンビニがあるのだ。

 

 

コンビニに駆け込むと、幸いにも店内は空いていて、

2人のパートさんが商品を補充している最中だった。
私はできるだけ速やかに、そして丁重に事情を話し、
猫の遺体を運びたいので大きなダンボール箱を譲ってほしいと頼んだ。


パートの女性はすぐさま快諾してくれ、ダンボール箱と一緒に、
大きなビニール袋とビニール手袋を私に与えてくれた。
その対応に私は心から感謝し、お辞儀をし、店を出て、猫のいる場所へと走った。

 

 

こうして私は誰にも邪魔されることなく、再び猫のもとに行き着くことができたのである。
あとは箱に移し、姉の迎えを待って、車で家に連れ帰ればいい。

 

 

猫のそばにダンボール箱を静かに置き、
大きなビニール袋を広げるようにして丁寧に中に敷くと、
私は両手に、ビニール手袋をはめた。


抜かりのないよう、そっと優しく、移してやらなければ。

 

 

いざ猫の体に触れようとしたそのとき、1人のおばさんが声をかけてきた。
「轢かれちゃったの?」といった類のことを言ってきたように思う。

 

私は自治体にまかせるとゴミ扱いされてしまうこと、
だから家に連れ帰って庭に埋めてやるのだと、簡潔に説明した。
それを聞いたおばさんは感嘆し、やたらと私を褒め称えた。

 

 


横たわる猫を、おばさんと二人、じっとみつめる。


その体には、目立った外傷はないように思えた。
毛並もきれいで、ふっくらと健康的な体型をしている。
きっと地域猫として、この界隈で少なからず可愛がられていたのではないだろうか。

 

手足は突っ張り硬直が始まっていたが、お腹にそっと触れるとそこはまだ柔らかかった。


「お腹はまだ柔らかいね・・・」

 

 

 

そうこうしていると、どこからともなく1人のおじさんが現れた。


「ああ、轢かれちゃったのか・・・」
おじさんはポツリつぶやき、後ろから私たちの様子をしばらく黙って眺めていたが、
猫を箱の中に移そうとしていることを見て取ると、おもむろに近づき、
伸びきった猫の両足を片手でむんずと捕まえ、そのまま持ち上げた。
それはまるで、猟師が獲物を捕らえたときのような持ち方である。

 

「そんな持ち方しないで・・・!」
私は思わず脳天から叫び声が出そうになった。

 

 

阻む隙もないほどに、おじさんは素早く猫の全身を箱の中に移し入れると、

何事もなかったかのように、そのまま無言で去って行った。

 

 

「すごかったね・・・」
これにはおばさんもびっくりしたらしく、小声でささやいた。

 

 

あんな持ち上げ方をしてほしくはなかったが、
結果的には、猫の体はとてもきれいに、箱の中にぴったりと納まっていた。

 

少しホッとしつつも、私はおばさんにたずねた。
「一応、飼い主さんがいるかどうか調べた方がいいですかね?」

 

「ええ??」
おばさんは私のこの問いにとても驚いたようだった。

 

「どうやって探すっていうの?」

 

「いやでも、一応念のため・・・」

 

「そんなの無理よ。それにたとえ飼い主がいたとしたって、

こんな姿見せない方が絶対いい!」
おばさんは確信を持って、力強く言った。

 

 

そうだろうか・・・。
私だったら、たとえどんな姿であっても、絶対自分の手で葬ってあげたい。


その信念の揺らぐことはなかったが、でも、
おばさんの言うこともきっと一理あるのだろうなと思った。

 

 

しばらくし、おばさんは最後にもう一度私をしつこく褒めると、
「じゃあね」と去って行った。

 

 

 

一人になった私は、その場にしゃがんだまま、アスファルトの道路に目をやった。


行きは気づかなかったのだが、道路の真ん中には、

まさにそこで轢かれたであろう大きな血のあとがあった。
そしてなぜだか、ぺちゃんこにつぶれたうんちが、一緒に残っていた。

 

道路の真ん中でうんちをしていて車に轢かれてしまったのだろうか・・・


一瞬そう思ったが、そんなわけはない。


考えれば答えは明確だ。
車に轢かれ息絶えた後、腸の筋肉が脱力し、残っていた便が出たのだろう。

 

つまりそれは、轢かれてしばらくの間は、

そのままそこに放置されていたということだ。

 

このときまで私は、もしかしたら、轢いた本人が、せめてもの対応として、
猫を縁石の内側に移動させた可能性もあると、
わずかなりにも罪の意識があってくれることを願っていたが、

それは全くなくなったわけだった。

 

 

私は動かぬ猫の、無念をみつめた。
穏やかな風の吹く、日が暮れる前の夕方だった。

 

 

 

しゃがみこんだまま一瞬ぼんやりしていると、誰かの足元が視界に入りこんだ。
見上げると、そこにはすらりと背の高い、黒いエプロン姿の男の人が立っている。

 

「・・・・・ですか?」


何と言ったのか聞き取れず、エプロンをしていたので、
私はてっきり、コンビニの人が心配して手伝いに来たのかと思った。


けれど、二言三言交わすうちに、

その人が猫を迎えにきた業者の人だということを私は理解した。

 

やっぱり誰かが通報していたのだな。

 

私は自分の意思を告げるべく、その人に言った。
「でも、そちらにお願いすると、ゴミとして燃やされてしまうのですよね?」


すると男の人は、愁いを帯びたような優しい笑みを浮かべて答えた。

「いいえ。動物霊園できちんと弔いをして、火葬します」

 

「え!そうなんですか!」
予想外の言葉に、私は戸惑った。


ちゃんと火葬され、合同供養塔に埋葬してもらえるのだという。

 

でも私は、それでも自分の家の庭に埋めてあげたいんです・・・!
そう言いかけたが、それを自制する冷静さは残っていた。


せっかく火葬して供養塔にも入れてもらえるというのに、
家の庭にそのまま埋めたいなどと言ったら、変に思われるだろう。

 

 

家に連れ帰り、庭に埋葬するのだと勝手に意気込んでいた私は、

なんだか拍子抜けした。

 

「そうでしたか・・・ 私はてっきり、ゴミ扱いされてしまうのかと思っていました」


「大丈夫です」
業者の男の人は、安心してくださいと言わんばかりに、微笑んだ。

 

 

ちょうどそのとき、母から電話がかかってきた。
あわてて出ると、「お姉ちゃんが探してるよ!」と言う。

 

あ、しまった!
私は焦るあまり、姉に場所をちゃんと伝えていなかったのである。
電話もつながらず困った姉は、とりあえず母の病室へ行ったらしい。

 

ああ、悪い事しちゃった。

急いで姉に電話を入れようとすると、

通りの向こうから、姉が大きな袋を持って走ってくるのが見えた。


「病院の前の道って言ってたから、病院まで行ってきちゃった。」
姉はひとまず病院に車を置き、私を探してこの道を走ってきたというのだ。


「ごめん!お姉ちゃん!肝心な事言ってなくて!」

 

とりあえず大きな袋を持ってきたという姉に、私は事の成り行きを話し、
この業者さんが、ちゃんと葬ってくれるのだということを伝えた。

 

「そうなんだ、よかったね」
姉はそう言うと、病院の駐車場へと慌ただしく帰っていった。

 

小走りに戻っていく姉の後ろ姿。
忙しいのにすぐさま駆けつけてくれた姉に、心から感謝したい。

 

 

この間も業者の男の人は厳かに、静かにたたずんでいた。
すぐ近くに、車を置いてあるという。
そこまで一緒に運んでもいいですかと聞くと、男の人は「わかりました」と答えた。

 

 

猫が入ったダンボール箱を、二人で、ゆっくりと持ち上げる。
それは切ないほどに、しっかりとした重みを保っていた。

 

促されるように脇道を進んで行くと、

電柱の手前に、白いミニバンが止まっているのが見えた。

 

私たちは足並みをそろえ、静かに車へと向かっていく。

バックドアを開けると、荷室には大きな桐の棺が置かれていた。


速やかに、その棺の中へ、ダンボール箱ごと移し入れる。

 

「拝ませてください」

 

私はそう言うと、時間をかけて何度も手を合わせ、

そして惜しむように、猫の体をそっと撫でた。


横顔、耳、お腹、手足、しっぽ・・・。
忘れないように、忘れないように。

 

 

結構な時間をかけたにもかかわらず、

業者の人は、じっと優しく見守っていてくれた。


私は心から感謝を伝えた。
そして深くお辞儀した。


「よろしくお願いします」

 

 

車は去り、私は元いた場所へと一人戻る。
猫が置かれていた縁石の内側には、口から流れ出た血だまりが生々しく残っていた。

 

 

誰もいなくなったあとも、私はしばらくじっとその場にたたずみ、

しゃがみこみ、人目を気にしつつも、幾度となく手を合わせた。


そして、家路へと急いだ。

 

 

家に帰ると、私はすぐに母に連絡を入れた。
母も心配していたらしく、たどり着いた結果に安堵している様子だった。

 

私自身もしばらくの間は、自分なりに精一杯できたのではないかと、

生ぬるい達成感の中に身を置いていた。

 

けれど、やはりそれは、長くは続かなかった。
すぐに後悔の芽が、むくむくと顔を出し始めたのである。

 

 

私は、ビニール手袋をしていた自分を、悔やんだ。
奪われた命の、その体を、素手で撫でてやることができなかった。


なぜなら私は、猫の感染症を恐れたからだ。
家には、チロとミカちゃんがいる。
私は何かしらの病気を、自分が媒介してしまうかもしれないという不安を、

この期に及んでまでも、捨てることができなかった。
過剰に用心したのだ。

 

それは仕方のない妥当な判断だと、多くの人は言うかもしれない。
けれど私はそこに、自分の中の「偽善」を感じずにはいられなかった。

 

 

なんのためらいもなく、猫の両足を素手で掴み上げたあのおじさんのほうが、
よっぽど心ある、「真」の振る舞いだったのではないだろうか。

 

本当に褒められるべきは私などではなく、
道路の真ん中で息絶えていた猫を、これ以上轢かれないようにと、自らの手で抱き上げ、

縁石の内側に移動させてくれた、その人物だ。


しばらくの間、私はずっとモヤモヤと、そんなことばかりを考えていた。

 

 

 


あれから1年。
この出来事を、何が何でも絶対に書かなければと、常に考えていた。


けれど、それがとてもつらい作業になることを私は知っていたから、

なかなかできずにいた。

 

書くためには、何度も何度も記憶をさかのぼり、えぐり出さねばならない。

 

悲しみというのは、数珠のようにつながっている。
一つの悲しみを深くみつめることは、心の奥底に抱えているすべての悲しみを、
根こそぎ引き上げることに他ならない。
それはとても、苦しいことだ。

 

けれど、たとえそうであっても、書かなければならない。
あの猫が生きた証を残せるのは、自分しか、いないのだ。
私が書かなければならない。描き留めておかねばならない。
そう思った。

 

 

 

しましまのしっぽが、ふさふさと、とっても可愛い子だった。
だから、しっぽの「ぽ」をとって、ポポちゃんと名付けた。

 


私は、ポポちゃんの命を、決して、忘れない。

 

 

 

 

 

 

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